認知症という言葉は知っていました。
テレビでも見たことがありますし、周囲から話を聞くこともありました。
だから知識がなかったわけではありません。
それなのに、母が認知症になるかもしれないとは思いたくありませんでした。
今振り返ると不思議です。
なぜ私は受け入れられなかったのでしょうか。
今回は、その頃の自分の気持ちについて振り返ってみたいと思います。
認知症かもしれないとは思っていた
母が回覧板を持って行けなくなった頃、私は弟と
「認知症の前兆かもしれないな」
という話をしていました。
つまり、まったく気付いていなかったわけではありません。
少し気になっていたのです。
ただ、その時の母は普通に会話ができていました。
家族のことも分かっていました。
だから私は、
「少し物忘れが増えただけかな」
と思っていました。
私の中にあった思い込み
当時の私は、認知症に対してある思い込みを持っていました。
認知症とは、
もっと症状が進んだ状態だと思っていたのです。
家族の顔が分からなくなる。
会話が難しくなる。
徘徊する。
そんな状態を想像していました。
だから、
母の変化と認知症が結び付きませんでした。
いや、
結び付けたくなかったのかもしれません。
本当に受け入れられなかったもの
今振り返ると、
認知症を知らなかったのではありません。
認知症という現実を受け入れたくなかったのです。
親はいつまでも親だと思っています。
子どもの頃から見てきた親です。
少し年を取っても、
少し弱っても、
親は親です。
ところが認知症という言葉は、
その当たり前を揺さぶります。
親が少しずつ変わっていくかもしれない。
これまで当たり前だったことが、当たり前ではなくなるかもしれない。
そんな未来を想像したくありませんでした。
特に私が受け入れられなかったのは、
親が認知症になることそのものだったと思います。
介護が大変そうだからではありません。
お金の心配でもありません。
親が親でなくなっていくかもしれない。
その現実を考えたくなかったのです。
だから私は、
「年齢のせいだろう」
と思いたかったのかもしれません。
その方が安心できたからです。
今振り返って思うこと
今になって思うことがあります。
人は気付かないのではなく、
受け入れられないことがあるのだと。
見えていないのではありません。
見えているのです。
でも、それを現実として認めたくない。
だから心のどこかで先送りしてしまう。
あの頃の私は、まさにそうだったように思います。
まとめ
認知症という言葉は知っていました。
でも、
母が認知症になるかもしれないとは思いたくありませんでした。
気付いていたかどうかではありません。
受け入れられたかどうかだったのです。
今振り返ると、
介護の始まりは親の変化ではなく、
子どもが現実を受け入れるところから始まるのかもしれません。
皆さんには、
本当は分かっていたのに認めたくなかった出来事がありますか。


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